第一部 山陰古道
| 山陰道一望 |
老ノ坂から八木までのパノラマ |
2012/7/16 |
保津町上空から東側の亀岡市街地約220度の22枚のデータ合成パノラマ写真である。
京都市内から老の坂を越え、山陰古道をたどり、篠町王子から旧街道を北西に進み、亀山城下に入る。余部町あたりで、愛宕道、篠山街道に分岐していく。
この写真の撮影日は2012年7月半ばの豪雨後で、南郷池をはじめ随所の貯水池の水が濁っているのが確認できる。夏にしては非常に空気が澄んでおり、遙か遠く野洲の近江富士も見える。
| これより東山城の国 |
老ノ坂峠に立つ道標 |
2012/10/30 |
老の坂旧道に立つ道標。
「寛文6年(1666年)の沓掛・塚原・物集村三村と篠村との境界争論の後、立てられたとされる。
9号線の老の坂京都側トンネル手前から旧道に入り、突き当たりを京都側に上っていくとこの道標がある。
| 老ノ坂から馬堀へ |
街道沿い篠町の街並み |
2012/7/16 |
画面上部に縦貫道新老の坂トンネルが確認できる。トンネル入り口下の赤白鉄塔の下に見える道が山陰古道である。この古道を通って行くと、鵜ノ川沿いに棚田が広がる風景は突然タイムスリップしたのではと思ってしまう。谷より高い位置にある国道9号線沿いからは、下の谷が見えないからだ。
山陰古道は王子神社で府道402号線とつながるが、この旧道沿いの街並みが歴史を感じさる。西側を通る9号線の風景との対比が面白い。
王子神社から画面左下に点々とつながる森は段丘の斜面にあたり、かなりの高低差がある。
画面中程、街道の左側にある森が篠村八幡宮である。
篠町にある「足利尊氏旗揚げの地」篠村八幡宮にある「旗立て楊」。
楊は100年ほどの寿命の木だが、挿し木により尊氏の時代から6〜7代を経て引き継がれてきたものである。
篠村は、足利氏ゆかりの地であり、母である上杉清子の故郷でもあった。また、篠村八幡宮の祭神は八幡太郎源義家であり、北条打倒の旗揚げ地としては最適の場所であった。尊氏はここで北条討伐をはじめて公にし、幅広く討伐の催促状を各地に送ったのである。
尊氏は、催促に応えて各地から集まって来る諸将の目印として、八幡宮に隣接する楊(やなぎ)の木に足利の家紋「二つ引両」と源氏の白旗を掲げたとされる。
| 篠村八幡宮 |
足利尊氏旗揚げの地 |
2012/10/30 |
由緒書や棟札によれば、延久3年(1071)、後三條天皇の勅願により源頼義公が応神天皇陵を守護する誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請して創建した。
神社の維持運営に充てるため、延久4年に頼義公は篠村荘を神社に寄進している〔八幡宮所蔵寄進状〕。
元弘3年(1333)4月29日、足利尊氏公が社前に必勝の願文(京都府登録文化財)を奉じて尊王討幕の旗揚げをしたことで知られる。
(篠村八幡宮HPより)
王子神社 [おうじじんじゃ] は、京都府亀岡市にあり、老ノ坂の峠神として街道を往来する旅人が安全祈願をしたとされる神社です。
1750年 (寛延7年) には、後水尾院勅願の天神様を祀る境内の天満宮が造営され、五穀豊穣・家内安全の神としても信仰を集めました。
(ぐるっと京都HPより)
| 篠町柏原付近の山陰道 |
馬堀から亀山城下へ |
2011/9/29 |
馬堀から京口へ至る、山陰道の様子。
今年、馬堀駅に至る道路が整備された。写真では舗装したての道路が黒っぽく写っている。
垣内で大きく曲がる山陰道は亀山城に入る「京口」に続く。年谷川を渡ると城下である。
JR南部の都市部と対照的に、北側の田園地帯は昔の風情を保っており複雑な形の畦道が美しい景観である。
畦には彼岸花が咲いているが、わずかに赤みを帯びた線がそれである。
| 城下への入り口 |
三宅町京口付近 |
2012/10/30 |
亀山城への入り口は「京口」「穴太口」「清水口」「丹後口」「亀山(篠山)口)の5つである。年谷川を渡ると城下町に入る。
年谷川の堤防にはかつて松並木がつづいており「千本松」と呼ばれるほどであった。一説には亀山城の防御線として明智光秀が植えたともいう。
−−−−−−−−−−−−−
「京口は亀山から京都に向かって進む京街道の出発地点であり、また、山陰街道を旅する人々が老ノ坂を越えてきて、初めての城下町への入り口でもあった。亀山藩にとっても当然重要な場所であり、監視体制強化のためここに番所をおいた。」(「京から丹波へ山陰古道」 石田康夫氏著 より)
山陰街道が通り、城下町が広がる亀山城の南側は、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。一方、南郷公園の立地する北側の搦手は、外堀が一重にめぐらされているだけとなっています。これは、有事の際には、保津川の流れを塞き止めると、北側の水田は二気に大きな堀となるように考案されているためです。
南郷公園は、桜を中心として四季折々の花を楽しむことが出来る都市公園として整備され、亀岡光秀まつりを始め、様々なイベントが繰り広げられる都市空間です。
(亀岡市設置案内板より)
この地に最初に城を築いたのは明智光秀である。光秀は織田信長の丹波平定の命令を受けて、天正三年二五七五)四月丹波攻略を開始した。その中で天正五年(一五七七)正月、光秀は丹波国衆の小畠左馬進や長沢又五郎などに亀山惣堀普請のため出動するように命じている(『新修亀岡市史』資料楊三。具体的な築城の様子は明らかでないが、近郊から資材や労働力を徴発し、急進亀山城を築城して、丹波平定の拠点とし亀山城は、保津川の河岸段丘の端に建てられたので、城の搦手に当たる北側は保津川につながる低湿地帯であった。城の天守が建てられたところが、亀の形に似た小さな丘になっていたので亀山城と呼ばれるようになったともいわれる。城を中心に東西と南の三方向に城下町は展開された。近郷の村々、諸方から職人・商人も集め町並みを整えていったと思われる(『丹東城塁記』・『亀山城地録』)。
(「京から丹波へ山陰古道」 石田康夫氏著 より
| 亀山城跡周辺 |
亀山城下を東から俯瞰する |
2012/7/16 |
明智光秀は、天正5年(1577)頃、丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城しました。保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。光秀は近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。天正8年(1580)に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手しますが、そのわずか2年後に「本能寺の変」が起こります。
亀山城はその後、羽柴秀俊(小早川秀秋)によって修築され、慶長15年(1610)岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。この築城にあたっては城づくりの名手・藤堂高虎が縄張りを務め、五重の層塔型天守が造営されました。
(亀岡市観光協会HPより
| 亀山城高札所跡 |
街道沿いの史跡 |
2012/10/30 |
高札とは現代の法律や罪人の罪状などを記して掲げた板札で一般民家へ周知する為交通の要所に立てられた。亀山城下では大手門へ向かう街道筋のこの付近に高札を立てる高札所があった。(解説板より) 亀岡市本町
元禄十五年(1702)、青山下野守忠重が、遠江浜松藩から、丹波亀山五万石の藩主として転封してきますが、着任の翌十六年(1703)四月十六日の夜半、亀山城下では火災が発生し、家屋の多くが被災しました。また、この火災の他にも貞享・元禄の頃には、人が集まって暮らしている城下町では、度々火災が発生していました。
亀山藩主として着任した青山忠重は、前任地の浜松で防火の神様として広く信仰されていた秋葉三尺坊を城下町の紺屋裏惣堀内側の穴太口に仮宮を建立して勧請し、城下の防火を願ったということです。(亀岡市の案内板より)
| 余部町付近 |
穴太道・篠山道・山陰道分岐 |
2012/7/16 |
山陰道、穴太道、愛宕道、篠山道など、ここ亀山からそれぞれに向かう分岐路が集中している。
画面上部、運動公園グラウンドの左側の集落に穴太寺がある。
山陰古道は宇津根町でJRを渡り府道405号線をくぐりJR線犬飼川鉄橋のすこし北東あたりで川を渡り、並河の集落に入っていくということらしい。
犬飼川沿いの大井町では、大規模に都市開発が進んでいる様子が見え、新しい亀岡が創られている。
| 曽我部・稗田野方面 |
篠山へ、妙見へ、八木へ向かう道 |
2012/7/16 |
稗田野、曽我部方面を見渡すと、篠山に向かう街道が湯の花温泉郷を通り本梅に伸びているのが見える。
| 穴太寺への道標 |
篠山口 (余部町) |
2012/10/30 |
余部町は亀山城下町の中で一番大きな町で、戸数一六五軒(『桑下慢録』)。両側に家並みが続き、町のはずれに道を横切って小川が流れ石橋がかかっている。ここが「篠山口」とか「亀山口」と呼ばれるところで、亀山城下町への入口であると同時に、天引峠を越えて篠山に通じる篠山道の出発点でもあった。今は暗渠になりアスファルトの道で石橋はないが、左手に道標を兼ねた愛宕常夜灯が立っている。「左あなう寺道」と刻まれ、寛政十年(一七九八)の紀年銘が見られる。
(「京から丹波へ山陰古道」 石田康夫氏著 より)
| 穴太寺 |
西国三十三ヶ所第二十一番札所 |
2010/10/30 |
穴太寺(あなおじ)は、京都府亀岡市にある天台宗の寺院。山号を菩提山(ぼだいさん)と称し、本尊は薬師如来、札所本尊は聖観世音菩薩。西国三十三箇所第21番札所となっている。「あなおおじ」「あのうじ」と読まれることもあり、「穴穂寺」「穴生寺」とも表記された。
宝徳2年(1450年)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年(705年)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。
穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかる。(ウイキペディアより)
| 京都からの道のり |
老ノ坂から千代川へ |
2011/5/18 |
5月の爽やかな、空気の透明度が高い絶好のフライトコンディションでの撮影で遠く比叡山まで見通せる。
京都から老ノ坂を越え、人々が往来した山陰古道を千代川まで辿ることができる。
一方、川東では、篠の鵜ノ川沿いから大堰川を渡り、保津、千歳、馬路を通るのではないかという古山陰道をイメージすることができる。
黄色く色が変わってきた麦畑と、田植えも近い水田ではそれぞれの水源から上流域より水が入って来ているのが分かる。川東の整然とした田の風情と、大井町の昔ながらの田の風情が対照的であり、特に千代川町湯井のあたりの緩やかな斜面で棚田は上空から見ると非常に美しい。
6月には一面田に水が入り盆地は「丹の湖」になる。
「新修亀岡市史」によると、元禄時代には商品流通が盛んになり、川関村や大井村の街道筋に新しく荷問屋を営むものが現れ、奥から来る商売人の荷をここで受けて馬の背に積み替え、城下を通らずに直接京へ送るので、城下町の問屋の荷が減って困ると京都町奉行所に訴えたと言う記録があります。
宮前町猪倉の砥石商がこれまで保津川の川船で運んでいた砥石をこの川関で馬に積んで運ぶようになったとも記されており、かなりの往来があったことが想像されます。
(Enjoy Kameoka HPより)
| 千代川町中土井 |
街道沿いの街並み |
2011/5/5 |
亀岡と八木の境、川関中土井の街道の様子。
八木町の中心部の街道筋の街並みが歴史を物語る一方で、どんどんと変化する八木の街。最近京都縦貫道八木東インターへの接続道路が完成し477号線バイパスとなった。
鳥羽は昔から、交通関係と密接にかかわって来た。丹波街道として、鳥羽を通って奥丹波への道は、江戸時代に園部藩主の小出吉親が、京都への経済道路として改修した。徳川幕府は山陰街道を脇街道としながら、宿場制を施行し、鳥羽宿場を定めた。京都、樫原、亀岡、鳥羽、須知と継送を実施し、旅宿も本陣の外四、五軒、外に商店などが軒をつらねていた。明治維新になって、宿場としての機能は無くなったが、京都への旅人が多く泊まって行った。園部−京都間には旅人馬車も運行され、米や産物も鳥羽を通して、大堰川の舟で運送した。陸運会社もあって大きな消費地である京都を目指して運ばれていた。(郷土史八木第4号より)
西京都パラグライダー練習場上空から園部〜八木までの街道の様子。
JR、縦貫道、9号線、園部川と大堰川の合流など交通の重要な地点である。
第二部 古山陰道周辺
| 千代川町拝田 |
千代川国府説の舞台 |
2011/5/18 |
丹波の国府があったのではとされる、千代川町拝田付近の空撮。
縦貫道、府道73号、家老ケ岳、山陰道に囲まれた地域ではないかという説がある。
−−−−−−−−−−
『和名抄』に「国府在桑田郡高低上一日下半日」とあることから、10世紀には桑田郡(現 亀岡市周辺)にあったと考えられている。しかしながら国府の位置は確定できておらず、現在も諸説がある[2]。
桑田郡 千代川 - 亀岡市千代川町。10世紀までの候補地として有力で、千代川遺跡からは8世紀中葉から9世紀を中心とする建物跡や遺物が見つかっている。(ウイキペディアより)
丹波の国府があったのではとされる、千代川町東斉ノ本付近の空撮。
この付近の田の形は上空から見ると非常に複雑で、地下に眠る遺跡をトレースした模様ではないかと想像力をかき立てる。
丹波国府があったのでは?と言われている池尻から屋賀の位置が分かる。
−−−−−−−−
船井郡 屋賀 - 南丹市八木町屋賀。
船井郡ながら桑田郡との群境であり、室町時代に描かれたとされる「丹波国吉富庄絵図」に、屋賀の地と考える場所に豪勢な建物と共に「国八庁」と記されている。また、集落内には国府という小字があり、丹波国総社の説のある宗神社が建つ。(ウイキペディアより)
画面中央、銀杏の黄葉が美しい寺院が安楽寺である。
この安楽寺がある字が「国府」であり、このあたりに丹波国府があったのでは?という説もある。
画面中央、池尻の町内を通る街道と、新しい道が交わる京都丹波牧場の東側の田が「池尻廃寺」の金堂跡が発掘された場所である。
画面中央左に坊主塚古墳が見える。
−−−−−−−−−−
池尻廃寺の全体の姿は明らかではない。しかし、寺院の中心と思われる所で瓦を使って化粧した立派な基壇が見つかり是が金堂跡と考えられる。そして金堂跡の正面では南門跡の一部が、また、金堂跡の後方では礎石建物跡が見つかっている。(わがまち馬路より)
池尻遺跡は、亀岡盆地における最大規模の古墳時代集落である。発掘調査では、古墳時代後期から飛鳥時代(六〜七世紀)にかけての数多くの竪穴式住居跡が見つかっている。これらの住居群とともに、その北側には、幅約四〜六m、深さ約二mもの規模をもつ、断面V字形の大規模な溝か発見された。この溝は、北西から南東へと馬路遺跡の方向へ掘られたもので、古墳時代後期の濯漑用水路であったと推定されている。同時に、V字形に掘られた溝は高い防御性をもつことから、集落を外敵から守る機能もそなえていたとみられる。池尻遺跡の東には、時塚1号墳に後続する時塚古墳群が築かれ、一帯には古墳時代中期末〜後期にかけての大規模な集落と墓域が広がっている。 (我がまち馬路より)
千歳車塚古墳は亀岡盆地の東北部に位置し牛松山から西へゆるやかに延びる台地上に築かれた前方後円墳である。延喜式内杜出雲大神宮の西方役600mの水田中にあり、墳丘には樹木もなく古墳が造られた当時に近い姿をしている。なお当古墳は、口丹波に現存する最大の前方後円墳である。
当古墳は、前方部を北西に向けたもので、全長80m、後円部の直径41m、高さ7.5m前方部の幅約45.5m高さ6mの整美な姿を残している。
外形では段築が認められるほか、後円部の直径に比べて前方部の幅が大きく、くびれ部に方形の造り出しを持つ。また周囲には周濠をめぐらせている。
外部施設としては葺石と埴輪が確認されているが、その配置等については不明である。当古墳の外形と出土した埴輪などから推定して、5世紀代、古墳時代中期に築造されたものと推定される。(千歳車塚古墳解説板より)
| 千歳車塚古墳 |
圃場整備中の様子 |
2008/7/26 |
だんだんと進行していく圃場整備事業を脇目に、時代の流れを見つめる古墳。
5世紀からの1500年の歴史上で、これほど短期間に周りの様子が変わって行くのを被葬者は驚きの目で見たことだろう。
この整備事業に伴い、地下に眠る歴史が次々を明らかになった。
| 千歳車塚古墳 |
圃場整備前の千歳町 |
2005/6/19 |
画面上左部分、馬路町南部で圃場整備事業の波が進んで来ている。
千歳は整備が遅かったので、貴重な資料を残すことができた。
この時はデジタルコンパクトカメラ(300万画素)で撮影している。
田植えの済んだ田の水に太陽が反射して美しい田園美を強調している。
旧河川の流れ、等高線、土地の境界線などいくつかの要因によりできてきた田の形に人々の昔からの営みを感じる。
こうしてみるとわずか7年前だが、亀岡の川東地区が大きく変化しているのが分かる。
圃場整備にあたり事前に発掘調査が行われた。
府道405号線沿いの時塚での発掘調査により、写真のような遺跡が出土した。
遺跡部分の手前丸いものが、時塚3号墳である。
圃場整備にあたり事前に発掘調査が行われた。
府道405号線沿いの時塚での発掘調査により、写真のような遺跡が出土した。
上方の田の左端の丸い部分が竪穴式住居跡である。
その昔国分寺がおかれた場所で、現在国の史跡に指定されており、亀岡市の名木、オハツキイチョウとラッパイチョウがそびえている。
写真右側の大きな「オハツキイチョウ」の木は、垂れ下った樹皮が乳状になっている。母親が乳の出ない時にこのお寺に詣り、この銀杏の乳を撫で、その手で更に自分の乳を撫でると、母乳がよく出るようになるという俗信がある。
周辺の田畑が圃場整備で区画整理された関係で、昔の田畑の区画との対比が面白い。
現在「丹波 NEW 風土記の里整備構想」により、周辺整備が進められている。
古墳の墳丘は二段に築かれ、その斜面には石を葺いて飾り、墳丘の南側にはステージのような「造出し」がある。墳丘の周りには二重の周濠が巡り、その規模は一辺約六八□である。古墳の頂上と二股に築かれた平坦面、そして造出しには埴輪が立ち並ぶ。
特に造出しには、円筒埴輪とともに馬・鳥・人物・笠(蓋)の埴輪が、さらに周温と周濠の間の堤にも馬・盾、盾持ち人形埴輪が立てられている。また、棺の中には鏡とともに甲冑一式が入れてあったことから、甲冑を身につけ、手に刀を待った馬路の王の姿が目に浮かぶ。 古墳は「倭の五王の時代」である五世紀後半に築かれ、倭政権の一翼を担った武人的な王の姿が想像される。これが発掘調査によって明らかになった坊主塚古墳の姿であり、今の姿から想像することは難しい。(我がまち馬路より)
| 馬路町坊主塚古墳 |
地上からの様子 |
2012/11/4 |
草刈りの済んだ保津車塚古墳。緩やかな棚田の一角に保存されている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
発掘調査の結果、同古墳が二重の堀を持つ前方後円墳で、五世紀後半に造られたことが分かりました。
周辺の堀からは、一般的に出土する土製の埴輪でなく、盾形の木製品が出土。周辺地域の政治勢力変遷を知るうえで重要な資料になりそうだと分析しています。
同古墳はこれまで形状や詳しい時期は分かっていなかったが、今回の調査の結果全長34mの前方丿円墳と判明。さらに、出土した須恵器から、同地域内では初めて五世紀後半の前方後円墳と確認されました。(保津百景道しるべより)
| 保津町保津車塚古墳 |
地上からの様子 |
2012/10/25 |
牛松山の裾野、緩やかな斜面にある保津車塚古墳。
特段の整備がされていないので、分かりにくいが画面中央の黄色の花の咲く盛り上がりが古墳である。
| 保津町 遺跡跡案内 |
推定古山陰道沿い |
2012/10/30 |
この案察使遺跡群も車塚古墳の埋蔵文化財調査と同じく国営圃場整備事業関連で実施され、案察使遺跡群の一般墳墓跡が発掘されました。
特にこの辺りには多くの遺構が発見されており、南東部の観音寺周辺を中心に山腹には19墳の古墳群、北保津に南北400mにわたり案察使遺跡群として亀岡市の史跡に指定されています。「案察使」の地名のゆかりは大和(奈良)の行政官(役職名を案察使といった)の拠点地で、国司一覧では四代国司小野朝臣馬養が保津に見任していたと記録があり、大和から遠く離れた地である丹波、但馬、因幡の三国の施政を司る中心地として、保津に居住を構えたことからこの辺りの地名を「案察使」と現在に残っております。
参考までに、初代国司であった大神朝臣駒麻呂は、丹波一の宮の出雲神宮や保津の請田神社を創建した人物であるといわれております。
(保津百景道しるべより)
End